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2004/03/11

習熟度別授業について(2)

 3月6日に、「習熟度別授業について(1)」という拙稿をアップさせていただきました。考えに未熟な点もあり、力不足で文章にして伝えきれない面もあり、読んで下さる方に不十分な情報であるという自覚があります (;_;) 。ですが、読んで下さる方の読解力にも助けていただいて、誰かが言わなくてはならない何かを含むことができていれば、という気持ちで、(2)をアップ致します。(3)で完結予定です。特に、若い方々が今の自分が置かれている立場を知ったり、考えたりする一助となることを切望しています。

「習熟度別授業について(1)」の Index
 はじめに
 1. 習熟度別授業の導入理由・経過
 2. 習熟度別授業の成果

「習熟度別授業について(2)」の Index
 3. 効果的な習熟度別授業を成り立たせる条件
 4.教育研修会の教師の発言からわかること
  4-1. 教育の負担・責任



3. 効果的な習熟度別授業を成り立たせる条件
 公言されないことではありますが、生徒に成績の善し悪しがあるのと同様に、教師も人間ですから、指導力の優劣はあります。指導力の高い教師と、高くない教師とがいた場合、受け持ちはどのようになされるでしょうか。
 「いわゆる成績の良いクラス」を受け持つのは、既に述べたように(前の記事「習熟度別授業について(1)の 2. 習熟度別授業の成果」での記述を参照)、学習指導力の高い教師でなければ効果が上がりません。「いわゆる成績の良くないクラス」でも、基礎を教えるからこそ、また、問題を抱えた生徒を指導するからこそ、指導力の高い教師が望まれます。難しい選択ですが、結果的には、進路指導に熱心な学校と、問題を抱えた生徒が多く在籍する学校、教師も平等だという考えが浸透した学校とで、対応は異なるかもしれません。(表面的には、教師はあくまで平等です。教師の個性、都合、条件・・・例えば、キャリアの長短・業務量の多少・能力の優劣など・・・等にほとんど関係なく割り振られます。学校によって、そうした条件を全く考慮しない学校もあれば、ある程度、配慮する学校もあります。)

 それで、教師自身は、「どちらのクラスを受け持ちたい」ものなのでしょう。
 「いわゆる成績の良いクラス」には、いわゆる手のかからない生徒がいるわけですから、ある教師の授業に不満があっても、自力で学習し、特に表立って注文をつけてくることは少ないでしょう。「いわゆる成績の良くないクラス」では、教師の適性が合わなかった場合、成績の成果が上がらないことに加えて、生徒およびクラス全体がより荒れてくることもあります。(もっとも、「いわゆる成績の良くないクラス」の指導は、もともと困難なのですから、適性のある教師がついたとしても、良い結果はすぐには現れません。教育は、時間がかかるものです。従って、簡単に教師や生徒を評価することはできません。)
 教師が、自分の受け持つクラスに希望を出せるもの(生徒の選り好み、能力不足はあってはならないことで現実的には不可能な話)なら、「私はこちらを。」と言いたいかもしれません。実際には、教員数に限りがあり、両方のクラスを受け持つ場合も多いです。
 正直なところ、全校的な協力体制、保護者との協力体制を良好に作り上げ、両方のクラスで十分な成果を上げられるタフでマルチな教師をそろえている学校は、あまりないと思います。
 
 習熟度別授業は、理想的な形(十分な学校の協力体制、教師の人員配置)で運用できるなら、それ相応の効果を期待できるかもしれません。
しかし、現実的には、理想的な運用ができるほど、教員数が十分に配置されている学校はありません。そこを補えるのは、やはり、その生徒を最も愛している保護者です。
 今の時代、子供たちがどんな状況に置かれているかを考えると、保護者は子供を育てることに相当の関心を持たざるをえないと考えているのですが、いかがでしょうか。
 考えてみると、学校は、授業をメインに構成されているわけですから、学習指導以外の面についてこそ、そう言えるとも思います。保護者は、どこまでを学校に任せるのか。
 それが今、学校の許容量を超えてしまっています。これは、教師の質や人員の問題と共に、現代の子供たちに受難の状況を生み出した要因の一つである、と私には、見えます。

4. 教研修会の教師の発言からわかること
4-1. 教育の負担・責任

 教研集会での、
 「自分も高校時代に能力別授業を受けた。『あほクラス』と呼ばれ卑屈な思いをした」
という発言は、私も本当に的外れだと思います。
 もともと生徒の中にあった差別意識が表面化したことに対して、表面化させないために習熟度別授業をやめるべきだ、というのは、まずいことにフタをする論理です。
 しかし、このような間違った発言が出てくるのは、社会の風潮においても、場合によっては教師の中にも、内心、いわゆる成績の良くないクラスに対してそれに近い認識を持っている大人の数が少なくないからかもしれません。
 ですが、ここで安易に誤った平等主義を持ち出すのでなく、きちんとした指導をしなくてはなりません。皆さんは、子供の保護者として、あるいは教師として、どのような指導をされていますか。「いわゆる成績の良くないクラスに入らないよう、がんばって勉強しなさい。」という指導では、不十分なわけです。
 定説があるわけではありませんが、私は、「人の全人格を、人の一側面のみによって判断し、人格を非難する間違いを正す指導。人の全人格を、人の一側面のみによって判断することも、人格を攻撃することも間違いであると認識し、自己に向けられた間違った非難に抗議し、または抗して生きる能力と強さを身につけさせる指導」であろうかと考えます。これは、相当難しい指導です。教育とは、そういうものでしょうが、指導者の人間としての真価が問われます。
 そして、この指導もまた、教師の力のみによってできることではありませんし、教師のみに責任と負担を負わせるべきものでもないと言わざるをえません。家庭での一言が、この指導の結果を大きく左右するからです。家庭では、どのような会話がされるでしょうか。「そうだ、学校の成績だけで人を判断したり、ばかにしたりするのはおかしい。」それとも、「先生が言うのは、きれいごと。現実的には通用しない。」

 こうして順を追って考えてみると、上記の教研修会での発言は、この指導の困難さから出たものかもしれません。発言内容に誤った点があるとしても、この指導の困難さは、いくらか伝わってくるように思います。
 自分の学校では、いわゆる成績の良くないクラスの状態が悪い。そのクラスの指導について他の教員からの、あるいは学校全体のサポートが乏しく、一人ないし数人で対処しなければならない(=不可能なことに取り組まされている)。PTAの協力体制が整わない。そのクラスを受け持つか、そのクラスの指導に真剣に取り組もうとしている。いろいろな状況も含めて、そのクラスの指導に自信が持てない。
 そのような立場にある教師が、現状を打開できないことを、半ば肯定してしまった上での発言かもしれません。
 とすれば、正論からすれば誤った的外れな発言であるとしても、今の世の中のゆがみの中で過剰な負担がかかり、追いつめられ、いらだつ生徒と教師のいる現実を反映していることになります。そう考えると、このような発言も、「おかしなことを言うな」と押しつぶすのでなく、もっと真意を伝える説明を求め、現実に歪んで苦しい学校の現状を警告するものとして、打開策を案じることが必要です。
 
 つまり、教研における先の発言を、前向きに考察して明らかになるのは、「習熟度別授業の弊害として、社会にある差別意識の(対策をしていない中での)顕在化と助長が、現実問題として起きている」、「子供たちの教育環境が悪化している」ことを訴えているという点だと考えます。


習熟度別授業(3)へ、続きます。

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*追記)04.07.11  記事「習熟度別授業」INDEX
習熟度別授業(1)
 はじめに
 1. 習熟度別授業の導入理由・経過
 2. 習熟度別授業の成果

習熟度別授業(2)
 3. 効果的な習熟度別授業を成り立たせる条件
 4.教育研修会の教師の発言からわかること
  4-1. 教育の負担・責任

習熟度別授業(3)
  4-2. コミュニケーション能力
 5. 教育に求めるもの、本当に教育すべきこと


*追記)05.05.12  各記事(エントリー)へのリンクが移転前のブログ(JUGEM)内のものだったのを、新ブログ(ココログ)内のものに改めました。

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